一つの馬小屋から始まる命もあれば、一つのガレージから始まる企業もある。ガラクタの集積の中だからこそ見出せる価値がある。
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今後の教育を変えていくのは、教育内容も然ることながら、教育環境なんじゃないかと思う。
たくさん漢字を覚えたり計算させたりそういう教養は欠かせないのも事実。
けどもやっぱり、子ども時代っていうのは感性を蛇口から垂れ流している状態で、それっていうのをどれだけ掬い集めるかだ。
広い芝生の上を走ったり、森に隠れ家作ったり、設けなければいけないゆとりはたくさんある。
その能動的ゆとりから、子どもはとてつもないほど価値あるものを学ぶはず。
その面では、暇な時間にゲームをすることだって個人的には悪い気はしない。
ゲームは自分の世界にちょっとした味付けをしてくれる。つまり、ゲームのキャラクターやストーリーは想像することの手助けをしてくれる。
ただ、それだけでは足りない。
ゲームをしているだけの状態は、いわば、絵を描くのに筆だけを持っているようなものだ。
絵はカンバスに描いてこその絵画だ。
ようするに、子どもたちが想像した物事を自然のなかで、体を使って表現しなければならない。
それは、なんだか興味深いけどどこか無機質な人工物、つまり校舎の中でも可能である。
今後、求められるのはこのカンバスに当たる部分。校舎と広大な自然環境である。
現在の校舎は余りにも実務的すぎる。
かつ、閉鎖的ともいえるかもしれない。
その環境から生まれる弊害はたくさんある。
一つにグループの細分化。
今の学校においての集団形成っていうのは、やっぱり閉鎖的で、邪魔者はとりあえず排除して、他を寄せ付けない。
そんな集団がパラパラポコポコできて、それが学級単位の集合に無理やりぶちこまれている。
それが原因で、「あいつは俺らとは違う雰囲気のグループだ」だのなんだの勝手に一人一人が集団を細分化しちゃう。
それっていうのは、すごいつまらないことで、ともすると、その人はすごい個性の持ち主なのかもしれない。
それに気づかないで、グループがばらばらの路線を進んでいく。
二つ目に、その路線を辿って行けば安心だというヤツが何人も現れること。
すなわち、周りに合わしとけばいいキョロちゃんキョロくんが大量生産されることである。
これが一番の克服すべき点なのかもしれない。
開放的な建造物、かつ、子どもにとって謎めいた構造のものは、これにうって変わる。
か、どうかは定かではないが、これを提案したい。
想像精神を最大限に引き出し、現代の教育を根底から覆したい。
開放された集団は、共同体のようで共同体ではない。自己中心性を肯定するわけではなく、自分が、自分で思ったことをしても、なにも咎められない。
自分で考えて、自分で行動する。というやつだ。
前述したように、この提案によりどんな結果がもたらされるかは未知だ。
個人的な推測であり、なんの根拠もないし、調査をしたわけではない。
ただ、経験則から述べて、過去の義務教育期間を振り返ってみれば省みる点は多くあるということだ。
その抜本的な改革の一つに、学校建設の在り方と広大な自然の必要性を述べたにすぎない。
今、日本は大きなターニングポイントを迎えている。
そこからどのような紆余曲折を経るかは誰にもわからない。
全てが順風満帆に進むわけはないのだ。
その中で、どれだけ未知の分野へ挑戦していくか、投資していくかが重要だ、というのが僕の意見である。
だけども、個人的には日本人はどうも安牌を取りにいくだろう気がしてならない。
それは、やはり自分一人の力ではどうもならないし、そもそも考えるのもめんどくさい、挙げ句の果てにはようわからんからお国が勝手に処理してくださいという消極的態度の集積に他ならない。
たくさん漢字を覚えたり計算させたりそういう教養は欠かせないのも事実。
けどもやっぱり、子ども時代っていうのは感性を蛇口から垂れ流している状態で、それっていうのをどれだけ掬い集めるかだ。
広い芝生の上を走ったり、森に隠れ家作ったり、設けなければいけないゆとりはたくさんある。
その能動的ゆとりから、子どもはとてつもないほど価値あるものを学ぶはず。
その面では、暇な時間にゲームをすることだって個人的には悪い気はしない。
ゲームは自分の世界にちょっとした味付けをしてくれる。つまり、ゲームのキャラクターやストーリーは想像することの手助けをしてくれる。
ただ、それだけでは足りない。
ゲームをしているだけの状態は、いわば、絵を描くのに筆だけを持っているようなものだ。
絵はカンバスに描いてこその絵画だ。
ようするに、子どもたちが想像した物事を自然のなかで、体を使って表現しなければならない。
それは、なんだか興味深いけどどこか無機質な人工物、つまり校舎の中でも可能である。
今後、求められるのはこのカンバスに当たる部分。校舎と広大な自然環境である。
現在の校舎は余りにも実務的すぎる。
かつ、閉鎖的ともいえるかもしれない。
その環境から生まれる弊害はたくさんある。
一つにグループの細分化。
今の学校においての集団形成っていうのは、やっぱり閉鎖的で、邪魔者はとりあえず排除して、他を寄せ付けない。
そんな集団がパラパラポコポコできて、それが学級単位の集合に無理やりぶちこまれている。
それが原因で、「あいつは俺らとは違う雰囲気のグループだ」だのなんだの勝手に一人一人が集団を細分化しちゃう。
それっていうのは、すごいつまらないことで、ともすると、その人はすごい個性の持ち主なのかもしれない。
それに気づかないで、グループがばらばらの路線を進んでいく。
二つ目に、その路線を辿って行けば安心だというヤツが何人も現れること。
すなわち、周りに合わしとけばいいキョロちゃんキョロくんが大量生産されることである。
これが一番の克服すべき点なのかもしれない。
開放的な建造物、かつ、子どもにとって謎めいた構造のものは、これにうって変わる。
か、どうかは定かではないが、これを提案したい。
想像精神を最大限に引き出し、現代の教育を根底から覆したい。
開放された集団は、共同体のようで共同体ではない。自己中心性を肯定するわけではなく、自分が、自分で思ったことをしても、なにも咎められない。
自分で考えて、自分で行動する。というやつだ。
前述したように、この提案によりどんな結果がもたらされるかは未知だ。
個人的な推測であり、なんの根拠もないし、調査をしたわけではない。
ただ、経験則から述べて、過去の義務教育期間を振り返ってみれば省みる点は多くあるということだ。
その抜本的な改革の一つに、学校建設の在り方と広大な自然の必要性を述べたにすぎない。
今、日本は大きなターニングポイントを迎えている。
そこからどのような紆余曲折を経るかは誰にもわからない。
全てが順風満帆に進むわけはないのだ。
その中で、どれだけ未知の分野へ挑戦していくか、投資していくかが重要だ、というのが僕の意見である。
だけども、個人的には日本人はどうも安牌を取りにいくだろう気がしてならない。
それは、やはり自分一人の力ではどうもならないし、そもそも考えるのもめんどくさい、挙げ句の果てにはようわからんからお国が勝手に処理してくださいという消極的態度の集積に他ならない。
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男性
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1992/11/23
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